2016年06月30日

ウナギ猫

ねずみのおもちゃ(とうにしっぽは取れている。)で遊ぶブック。
ドアの裏側に入ってしまう。
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出してあげると再び遊び出す。
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今日のブックはウナギみたい。
赤塚不二夫作のウナギ犬というのがある。
なのでウナギ猫か。
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今年もどこからか飛んで来たねじり花が咲いていた。
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母の手記です。良かったら見て下さい。
私の夢&再び長春へ

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2016年06月29日

まるでなすび

背もたれで昼寝をするブック。
私は雨だったので非常階段と廊下の壁、ベランダの壁を掃除する。
思ったよりきれいにならず疲れた。
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何もしてなくてもダラ〜ンのブック。
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これは今日買ったなすびに似ている。
おいしそう。
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子猫が小学校のグランドを歩いていた。
どこにいるか分かりますか?
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2016年06月28日

迷惑をこうむる

実家の野良の黒猫が何だかクロを追い出そうとしてる。
私にストーカー?してうるさい。
隙あらば家に入ろうとするし困ったものだ。
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クロはもう外ではご飯は食べなくて
自分から家に入って食べ出した。
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痩せて来たみたいで可哀想。
早く何処かへ行って欲しい。
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ブックはここ最近、手すりで寝だした。
TVの音がうるさくないのだろうか。
まあ、ブックも良く鳴くし。
上の階の猫が鳴くのでブックもつい反応して
鳴くので困ったものだ。

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昨日は皆様に見て頂くことが出来なかった母の手記です。
こちらのブログにUPしました。
長い文章なので適当に読んでみて下さい。

私 の 夢          村岡 恵子

私が夢に見ているものを語りましょうか。
それは一つの町がこちらに輝いて見えます。
       こうしゅれい
その町は「公主嶺」と呼ばれています。
青い樹林にかこまれた静かな古い町
私が置き去りにして来た幸福がいまもなお
私を待っているに違いないのです。

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ヘッセ詩集の「北国」の中から好きな言葉を
撰んでみました。
×     ×     ×
今年の夏本当に公主嶺に行く事が出来る
のでしょうか。私の胸は期待とあまりにも
早く訪れた実現へのチャンスに不安すら
覚えてる有様で御座居ます。
私達一家が渡満致しましたのは、昭和十一年
の二月でこの前年父は独立野砲兵として満州国
の錦県におりそこへ呼び寄せられました。
錦県に着いた夜匪賊の発砲があり、治安の悪い所でした。四月に入学する小学校も馬車で二里近く行く様な所にあり父母が案じていましたが、幸いすぐ公主嶺に転任となり大喜びだったそうです。
        
公主嶺に着いた時の情景は今もありありと覚えています程公主嶺の町は印象的で幼かった私の脳裏に焼き付けられました。それなのに昭和十五年八月に父が新京(現在の長春)に転任の為公主嶺を去る日の事は覚えていないのが不思議でなりません。五年生の夏休みの事であり、先生お友達にお別れの挨拶も出来ず飛び立つ様に新京に来てしまった為いまだに私の心は公主嶺を去ったと言う実感がないのかもしれません。それ故に永い年月夢見るのはいつも公主嶺の町の事でした。
私の生涯の内これ程胸の中に残っています。公主嶺の事を公主嶺に住んだ人々にしか理解出来ない不思議な魅力を持つ緑の美しい町で御座居ました。昭和十四年八月にはノモンハン事件という悲しい記憶もありましたが父母も若く慈愛に包まれ先生友達にも恵まれ、夢の様に楽しい少女時代を過ごす事が出来ました。五年間住みました菊池町四丁目陸軍官舎第百拾四号の家、前には小林多喜一郎くん、後は渡辺くんの家、垣根越しには松村エミちゃん、同じ棟の端の西山俊子ちゃん、近くの浜崎マサ子さん、みんなみんな胸が痛くなる程懐かしい方ばかり・・・。夏の夜は夕日が落ちても、夕涼みかたがた声をはりあげて「花いちもんめエミちゃん欲しい花いちもんめ」と官舎と官舎の間の道で遊んだものです。赤い煉瓦を削ってままごと遊びをした向日葵の花の下、裏庭の一本のライラックの木その木の下に眠るロシア犬の丸。もしあの公主嶺へ行く事が出来ましたらもういつ死んでもよい心境となっております。本当に私は六才の時降り立ちました公主嶺の駅に再び立つ事が出来るので御座居ましょうか。
   ×       ×       ×
  還らざる日の中に在るかの家の煉瓦の赤はつむりても赤 
  さやさやと梢を渡る秋風に遠き満州野を思い焦がるるつまぐれ
  爪紅の記憶も愛し友がいて少女のままに顕ちくる夕べ
  幾年も便り途絶えし旧友に不意に会いたし夕陽の丘に               

                          恵子

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


  再び長春へ        村 岡 恵 子
               (当時五十三才)
一九八三年七月三十一日十三時十四分
ハルピン発大連行き列車に乗車する。
一路心逸る長春へ向けて進む列車の中より、
雄大な眺めの高粱、玉蜀黍、向日葵畑の満州
野を心ゆくまで見る。
線路の両側に咲く可憐な黄の花に心奪われ
                ショウハイ 
たり、降りてゆく中国人の子供に手を振り
駅如に駅名を見つけるのに大騒ぎしてる間
にいつか黄昏が近くなって来る。赤い夕陽
               ミシャズ、ラオジャイチ
の見えるかと思う間もなく米沙子、老家一
カンホ、ショウナン
間堡、小南を経て十八時五十三分長春に着く。
夢にまで見た懐かしく心うづく長春よ。昭和
十八年八月にここから内地へ帰って正に四十年目に私は再び長春駅のホームを歩くこ
とが出来た。思えば四年足らずの短い滞在の地であったが多感な少女時代を過ごした長春の街は私にとって一生を支配する公主嶺に次ぐ大事な思い出の地であった。
駅前に立ってまだ陽のある長春を振り返ると長春駅はそこにあった。
                          スターリン
待っていたバスに乗って大同大街を(現在斯太林大街)を南湖前にある長白山賓館へ向う途中窓から見える風景は殆ど見覚えのある建物だった。然し四十年も経つと樹木はこれ程茂るものであろうか。まさに長春の街がすっぽりと緑に覆われてしまったという感じである。すぐ目に入ったキリスト教会、ステンドグラスの高く美しかった教会は今は十字架もなく古く汚れていた。次は新京神社奥(第一幼稚園)になっている。
毛沢東の白いセメント像が見える。かつての児玉公園である。今は(勝利公園)と言う。
陸軍大将児玉源太郎の乗馬姿の銅像の前で家族六人が教会の帰り、中国人の街頭写真屋に撮ってもらった写真が空襲の中をくぐり抜け色変わりもせず私の手元に残っている。 
ボートに乗ったり小さな驢馬に乗ったりスケート競技を見学したり楽しい思いばかり残る公園だった。
園長の文屋さん一家もクリスチャンで親しかったが行方しれずである。
関東軍司令部の建物も見えた。今(吉林省革命委員会)日本流では県庁にあたる。少し過ぎて康徳会館そっくり昔の儘、この地下で現在(長春市革命委員会)日本流で市役所。楽しい食事をした事があった。隣は三中井百貨店今も(長春市百貨公司、第五商店)となっている。母とよく買い物に来た所である。
リラの花柄の布を買ってもらい教材のワンピースを縫った。コーヒーがおいしかった。大同広場に出る。今は人民広場となっている。

建国十周年の式典参加の為ここで長時間座って待っていた事を思い出す。太い円柱のそそり立つ中央銀行の建物が見える。
今も(中国銀行長春分行)銀行であった。たしか入り口が廻転ドアになっていたと思うけど確かめるすべはない。その横の電々会社も同じく(電信局)となっている。進むにつれて何だか胸の騒立つ煉瓦の建物が目に入る。あの建物はどこだったのだろうかと懸命に記憶を呼び起こすがはっきりしない。
翌日タクシーで廻った時順天小学校へ連れて行ってくれと頼んだら運転手は二の建物の前でピタッと車を止めたのだった。順天小学校は卒業した学校であったが公主嶺より転校して一年半しかいなかった学校だからはっきりしなかったのだけれど記憶とは恐ろしいものだと自分で感心する昔は広々としていた空地にびっしりと建物が並び元住んでいた錦輝路の前を通ったのかどうか分からない内容に合同法衛の大きな建物の横を通る。錦ヶ丘高女に通学の時必ず見たモダンな合同法衛(裁判所 )がポプラの木の間にゆったりとあった。
その前の親民広場(旧安民広場)の一角に私達一行が二泊する立派な九階建ての長白山賓館へ到着する。
九階の九二六号室に大野さんと入る。北京、ハルピン、長春とベッドもバスもトイレもある二人泊まりの部屋を用意くれていた。ベッドの寝心地もよく睡眠時間の短い割にはぐっすりと熟睡してる様だった。
おいしい中華料理を前にこの度の「公主嶺友好訪中の旅」の団長、副団長 、秘書長の挨拶があり、一班から七班に分けた総勢七十名の自己紹介がある。二代続けて公主嶺に住んでいた方も多く、今更公主嶺や満州への思いがどんなに深いか認識させられる。

楽しい食事が終わると外はとっぷりと日が暮れてカーテンの間より見る長春の街の灯がたまらなく懐かしい。昔、南嶺の官舎の窓から見た新京の素晴らしい夜景には比べ様もない節電の街となっている。
朝四時過ぎの鳴き声で目を覚ます。カーテンをめくるともう夜が白い楊炎の様な霧に包まれた街を見ているとやっと長春に来ているという実感がひし々と身に沁みて来る。
この宿の道を真っ直ぐ行けば錦輝路の家がありその先には南嶺もあるのだと思うと飛んで行きたい思いに駆られる。八月一日、朝食の後八時三十分ホテルを出発一号車と二号車に分かれ私達は二号車で吉林博物館へ行く。昔、満州皇帝薄儀がおられた官内府である。
長春の東部にあり城内を通る為私は一度も行った事のない場所であった。テラスより見る
中庭花壇は美しくダリヤ、百日草、グラジオラスと花々が咲き乱れていた。想像していたよりとても手狭でここがかつての皇居かと思うと気の毒な気がした。皇帝の椅子にも座って見たが狭い廊下に置かれ何とも侘しい。今更かつて日本帝国に操られた皇帝の悲劇を見るようだった。新発と八島通り(現在北京大街)との交点にあった宝山百貨 店に案内される。今は(長春市百貨公司第二商店)となっている。
中は中国人の客が多く日用品の魔法瓶や鍋などを手に取って熱心に見ていた。魔法瓶は二千円位の値段である。粗末なニッケかブリキの様な蓋をして一見チャチな感じがするが、これが中々の物でお湯が時間が経っても殆ど冷めないのだから驚きである。ハルピンから長春に行く車中で不幸にも魔法瓶の湯が足に掛かった瀬川さんはあまりの熱湯の為ひどい火傷を負わされた事は本当にお気の毒であった。
エレベーターで上り四階の外国人向けの売場があり私はパンダが刺繍されているハンカチをお土産に買う。
国営の為か品物が少なく商売気があまりない売場だった。次は敷島高女の前でバスを降りる。
ここも忘れられない所だった。胸をドキドキさせながら女学校の入試を受けに来た所だ。
重いドアを押して入る口答試間の時錦ヶ丘のお作法の石黒先生から「もう少し大きい声がでませんか。」
と言われ赤面したのをはっきり覚えている。現在(第十一中学)となっている。
興安橋を渡ると新京第一中学校(今は陸軍の学校)となって中へ入れてくれない。
すぐ陸軍病院が見える。ノモンハン事件で父が足に負傷した時、公主嶺から見舞いに来た事がある。
耳を悪くして暫く通院してる時婦長殿に兵隊さんが挙手の礼をしてるのに驚いた事があった。
車は見覚えのある東朝陽路の昔は瀟洒な建物だった住宅を通り抜け錦ヶ丘高女門前に止まる。
あんなに夢にまで出て来る錦ヶ丘のグレーの校舎が間違いなく眼前に建っている。
前の広場は家がびっしり建ち運動場の方も建物が並んで錦ヶ丘女は狭くなった様で淋しい気がした。
今は兵士とか役人の宿舎となっている。母に連れられて新しいセーラー服に赤いリボンを結び胸躍らせて雪解けの錦ヶ丘に入学した日の事や入学してすぐ自転車部に入部おニューの女乗りの自転車で部員とこの坂を思い切り飛ばした事等走馬燈の様に駆け廻る。
上級生のTさんに憧れてラヴレターを持って下駄箱の前をウロウロした切ない日も・・・・。結局出さずじまいだった幼稚な私。其の後の苦しい戦乱の中へ入る一刻の甘い日々だったのかもしれない。
正門の前で錦ヶ丘関係の友等と仲良くカメラに収まる。 ホテルに戻り昼食。十五 時十分南湖の西にあたる長春映画制作所に行く。旧満映のスタジオであの頃季香蘭があでやかに活躍していた。
見学に来た事があり同じスタジオの廊下を通ってると昨日の続きのように思われ四十年も過ぎてしまった事が何だか儚く思われて来る十六時二台のバスが停まった所は長江の入り口であった。
懐かしい旧吉野町で昔と変わらず人々が溢れている様な通りである。
入り口の向かって右側の店は今でもお菓子屋らしい。キューピーの形をした可愛らしい外見で中はチョコレートの味がする。この店独特のお菓子で母が立ち寄る度に買ってくれたものだった。
胸がじんと鳴る程キューピー菓子と亡母が恋しい。暫く立っていると伊藤さんも井出さんも覚えてると話される。あまり立ち止まって話すので中国人が廻りでじろじろと見る始末、三、四軒目の店も懐かしい。
矢張り食堂となっている。母と買い物に疲れこの店で食事をしようと入りかけたのに錦ヶ丘の制服を着ていた私は校則に反すると入らないので、母が「父兄がついているのだから大丈夫だからだからネ。」と言うのにどうしても入らなかった品行方正だった私。立ち寄り難い思いで長江路を通り抜ける。
日本人が団体で歩くので中国人が珍しいのか群がる感じになるので歩幅を速めて歩く。
昔は道中が狭い感じだったが今はネオンもなく建物だらけなのでさっぱりしている。

十六時三十分ホテルに戻り自由行動となる。通訳のAさんに頼んでタクシーを呼んで貰う。
かれこれ三十分近く待ってやっと国営のタクシーが来る。
ニコニコしてドアを開けたら運転手の横に五、六才の少年が同乗している。
運転手の子供だそうだ。利発な感じで同乗の満吉さん、杉田さんに煙草を勧め、私には飴を二つくれる。
通訳のBさんが付いて来てくれる。この青年は北京の学生で長白山賓館の事務所に父が務めているそうだ。
就職は長白山賓館に決っているとの事で中国でもコネはあるのだと感じる。
修行中という感じの日本語であるが、おとなしく誠実な人柄らしい。
それにしても日本語の勉強をして通訳になるには大変な競争率で難関をくぐり抜けなければいけないと言う。自由大路を真っ直ぐ新京二中のあった南嶺に向けてタクシーで行くと左側に白いコンクリートの門が見える。南嶺動植物園の入口であった。
何回か猿たちを見に来た事があった。東洋一を目指して大規模に造っていたけど今は何もないないらしく寂れた感じがする。犬や猫を飼ってはいけない国だから動物園等無理な事と思う。
人口が多い為子供は一人というスローガンの立て札を街角で見る。無駄な事は一切排除したらしく、新京でも名物だった大同大街の道路上にあった「孝子廟」がきれいに無くなっていたので、通訳に聞くと「必要がないからです。」とあっさりと言われたので苦笑する。
「孔子廟を関東軍当局でさえ取り除く事が出来なかったのだから。
恐らく十年も続いた悪政の文化大革命の「四人組」の仕業かもしれない。中国はこの革命の為十年は遅れたと言うがその間残留の日本人達はどんな思いで暮らしていたのだろう。
「四人組」は大衆が知識を持つことを許さず学生には勉強を許さず農民には田を耕す事を許さず労働者には機械を動かす事も許さなかった。「読書無用論」で本を読む事も文学等の話も出来ず職場は恐怖の空気に満ち満ちていたらしい。今はその陰もなく人々の顔は明るく服装もさっぱりしている。
ただ人口が十億というこの国で人々が今一番困っているのは住宅不足という事がよくわかる。
四十年も経っているのに長春の街は殆ど変らず残った建物を大事に使っているがもうみずほらしい所もある。中央観象台が見える。今も(気象庁)である。
流れる星は生きている」の藤原ていの夫の新田次郎が務めていた所である。私も後二年ここに住んでいたら同じ命を辿っていたかもしれない。バスの終点同仁郷の中国人部落を通る。
タクシーの窓から見るこの街は正にスラム街となって胸が痛く正視する事が出来ない。
「磐石路」の道標が見える。昔も磐石路だった事を思い出す。兵営の建物があり門の横に立逍の兵士の為に小さなボックスもその為残っているのが悲しい。兵営の裏手の方は広い草原の丘で満州事変の時戦士された勇士の墓が並んでいたけど今は誰も参る人もなく赤い夕日に照らされ淋しく土の下で眠っている事だろう。
大同学院の前にあった我が家の官舎もお化けの様に茂った樹々が邪魔をして見えない。
降りて確かめたい気がしたけど赤い星の付いた門が見え兵士が立っているのでせめて写真だけでも撮ろうとすると運転手がいけないと手を振る。後で現像した写真を見ると堀と樹だけが暗く写っていた。
建国広場に出る。現在は(工衣広場)と言う。広場を南に下った南湖の近くに建国記神廟があった。
くたびれる程歩いて参拝した神殿に天照大神を祀っていた時など記憶にないけれど、錦ヶ丘の一年生の時ポプラか何かの木を植えた事がある。もしその樹が茂っていたら私が満州に残した唯一の形見であろう。
自由広場まで戻るこの道の両側は法政大学、大陸科学院、工業大学、医科大学と大きな建物が広々と建っているが鬱蒼とした樹々の間から垣間見る様な有様となっている。
広い道なのでタクシーは七十キロ程出して一瞬の間に自由広場に来る。
交通規則はなく人や車がいないと、ぶっ飛ばす様だが運転は功く不安を感じさせない。
この近くに三度目に移った家があるかと思う間もなく順天小学校だろうかと暫く立って見回す。
小学を卒業した学校だけれど一年半在学という短い記憶は学校の周りを曖昧にしてしまい、今は家畜工場という、ためらいもあって中へ入る勇気が出ない。
せめて外から六年の教室の方へ行こうとすると半分は陸軍に接収されていて赤い星の門があり、矢っ張り兵士が寄って来てはいけないと手を振る。杉田さんに撮って頂いた写真を見ると教室の建物と兵士が写っていた。庭には向日葵が高く大きく咲いていた。一周したかったけれど時間が足りないので心を残しながら次に白菊町にあった満吉さんが住んでおられた満鉄の社宅に行く。
私は何だか疲れたので一人車に残っていると中国人の年寄りが寄って来て運転手に話し掛けるといつの間にか人だかりがして来る。然しどの人の顔も柔和で人懐こく、不安も消えて集まって来た子供達を写したりした。満吉さん達が戻って来られた家はやっと見つかったそうで今は二所帯が住んでいるとの事で矢張り今も鉄道の社宅として使われている。
城内や南嶺の様な事はなく古びてはいるが昔の満州社宅の面影の残る町並みであった。
次は気を利かせたのか白菊小学校に着く。
ここの運動場で紀元二千六百年祝典の為新京中の五、六年生が集合し「海」と言う遊戯を一生懸命練習したものだった。今でも「松原遠く消ゆるところ」と手を繋いで波の様に踊る遊戯を覚えている。
満州国がどれ程の犠牲の上で建国されたのか考えた事も無く日本を信じて無心に南嶺の運動会で踊ったあの頃、知らなかった事とはいえ中国人に対して胸の痛む行事であったのだ。
次は杉田さんの希望で興安橋に行く。この路を真っ直ぐ行くと緑園住宅がある。
杉田さんは少年に返って橋の上から懸命に汽車を写している。憧れのアジア号が通ったのかしら。
夕暮れの中、長白山賓館へ帰ると全員食堂で夕食を食べておられ恥ずかしくなる。
夢中で過ごしていたので夕食の時間を大分過ぎていたのだ。夜は大橋さん達の部屋に集まって、新井先生、宮野入先生に寄せ書を書いて明日行く公主嶺から投函する事に決める。
明日はいよいよ公主嶺に行く事が出来ると思うと心が昂って眠れそうもなく寝酒を戴く。
八月二日六時半宿のすぐ前になる南湖公園へ皆と連立って出掛ける。夜来の雨も止み霧が掛かって静かに昔と変わらぬ風景で私達を迎えてくれる。呑気に魚を釣る中国人の姿もちらほらと見え湖面を渡る朝の風は心地よかった。水の澄む広々とした南湖を見渡すと灌漑無量思いが駆け巡り少女の目が鮮やか浮かんで来る。
あれは六年生の冬南湖の社宅に住む友に誘われてスケートを来た日の事。広い湖面は一面に底まで透き通る程凍っており立つのが恐い程だった。走っても走っても誰も見えず二人だけが思い切り滑って今見覚えのあるこの橋の下を潜り抜けた。又錦ヶ丘に入学した年の冬雪中行軍で南嶺に行く途中この南湖の上でお八つを食べてお尻が冷たかった事も思い出す。再びこの南湖も見る事はなかろうとあちこちとカメラを向ける。
学生の通訳Bさんに前日タクシーの中で「長春も南嶺も見たからもう来る事はない。」と話すと「先生、どうしてそんな事を言われるのですか。後十年したらもう一度来てこの長春を見て下さい。」と真剣な顔で言われたのをふっと思い出す。その頃長春はどんな風に変わっているのだろう。もう一度来て見たいと思いながら、あまりにも恵まれた思い出しか持たず訪れた自分に対してもうこれでいいのだよと囁く声がする。
そして納得して帰国後二ヶ月、胸を焦がす思いはちっとも消えていない事に気がつく。
私は夢の中を彷徨って来たのだろうか。
ツアイチエン
 「再会!長春」はさようならではなく再び会えるという言う事だろうか―。

posted by 猫の妖精 at 17:35| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする